仁王さん=なんか怖い顔して怒っている、っていうイメージ。「わるいごどしたらゆるさねぞ~」って、なまはげみたいな存在だと思っていました。⇒
盛岡の仁王像~やっぱり photo blogコレ、子どものころから、お寺の地獄絵とともに、私の中の怖いものの上位。
奈良東大寺で、教科書に出てきた運慶・快慶の東大寺
『金剛力士立像』実物見てきました~~
ココにいらしたんですね~(←無知でムチムチ)

←この南大門の柱の中に。
デカイ

大迫力

ほこりがかかったように白く見えます。800年を経て現存する歴史の証明。


先日、ちょうどNHKで、
夢の運慶 傑作10選 NHK 日曜美術館が再放送されていました。偶然なのか、いや、いつもやっているのに、たまたま最近自分が見て意識の先っぽにあるから気に留めるのか・・・いつもなら見過ごすのに、今回は興味深く見ます。とにかく百聞は一見に如かずで、実際に修学旅行などで歴史的建造物や仏像を自分の眼で見るということは意味のあることなんだろうな~そのときぜんぜん知識がなくても、のちのち知りたくなって調べるってこともありますよね。
東大寺の守護神であるこれらの巨像は、高さ8、4メートル。平成の解体修理の結果、像内納入文書から運慶、快慶、定覚、湛慶(運慶の子)が小仏師多数を率いてわずか2か月で、工房制作により造立したものであることがあらためてわかったそうです。それぞれ3000ピースほどのパーツからなる寄木作り。組み立てた後、何度も修正をくりかえしていることも。例えば、吽形(うんぎょう)像。右手は下から見上げたとき手のひらをより大きく見せるために、手首の角度を変えて、その隙間に木片をさしこんだとか。また、腕の筋肉の盛り上がりを強調するために、木片をつぎ足したりとか。
大きさだけでない。この力強い存在感。
これだけ大きなものを短期間でひとりふたりで作るのはとても無理。かといって、ひとつの芸術作品は、たくさんの人が一緒に作り上げるものでもないでしょう。仕事の割り振り、指示も難しければ、自分のイメージを伝えカタチにするだけの技術を身につけた弟子を育てなければならず、それ自体、長い時間がかかります。さらに運慶が制作の総指揮にあたったわけで、そのリーダーシップたるや、おそるべし。2ヶ月っていう制作期間は奇跡的だけど、その裏にはカリスマ大仏師の運慶と、多くの仏師たちの日々の精進があったのでしょう。
そして、
奈良の大仏さま
盧舎那仏像(るしゃなぶつぞう) 、この大仏殿(東大寺金堂)の中に。
大きいことは知っていましたが。
ホント大きい。15メートルか~
見上げた人々の目を意識して、頭部や手が大きく作られているんだ~3頭身。
奈良時代、疫病・干ばつ・飢饉・地震・反乱などの社会不安を取り除き、国を安定させたいという願いから、聖武天皇の発願で創建。752年、開眼供養会(かいげんくようえ)の時点でもまだ未完成。青銅の鋳造で、当時は金メッキがほどこされていたそうです。光背と同じ金ピカだったのね~~

現在の技術を駆使しても、その再現はきわめて難しいそうです。
技術ももちろんですが、鋳型を作る土、銅・金など莫大な原材料の確保が困難だし、労働力だってどうする?ってことです。
完成までの28年間。その間の犠牲はどれほどだったか。携わった労働力は全国からのべ260万人。税も上がり人々は貧窮したといいます。金メッキで発生する水銀の中毒被害も相当だったようです。これが平城京がわずか74年間で歴史を閉じ、長岡京へ遷都せざるを得なかった理由とする説もあります。
その方向から見ると、そもそもの建立の目的・役割は?って話になりますが。
以来、大仏と大仏殿は、源平争乱期と、戦国時代の2回、兵火で焼失したり、地震や台風の被害に遭いながら修復が繰り返されてきました。当初の部分は台座の蓮弁(華厳経の世界観の線刻がほどこされた蓮の花弁)、腹、袖など、ごく一部が残るにすぎず、両手は桃山時代、頭部は江戸時代頭部は江戸時代、体部は大部分が鎌倉時代の補修であるそうです。たしかに、頭と体ははっきり色がちがっていました。また、堂内に展示された年表に、戦乱で焼失した東大寺の復興に際し、藤原秀衡が金を献上したとありました。させられた、ということでしょうが、身近なところで、奥州藤原氏も関わっていたんですね。
大仏さまもすごいけど、その大きな大仏を囲っているこの大仏殿、それを支える柱の巨木に唖然。
樹齢何年?ってカンジです。
鎌倉の大仏に現在大仏殿がないのも、無理ないですわ~(比較はコチラのサイトで⇒
奈良・鎌倉 大仏百科)
この大仏殿に関しては、以前見た
歴史秘話ヒストリア 奈良の大仏 奇跡の復活劇が思い出されます。
(↑のNHK HPより引用)・・・戦国時代には、兵火により大仏殿が炎上し、大仏は上半身が溶け崩れてしまう。その後、修理されるが資金が不足し頭は木造に銅版を貼る応急処置しか出来なかった。炎上から100年たった江戸時代初期、朽ち果てて痛ましい姿に変わっていた大仏の姿を見て涙を流し、再建を決意したのが東大寺の13歳の少年僧・公慶だった。「自分には傘があるが、大仏さまは風雨にさらされたままだ」と。公慶は37歳の時、再建資金を人々から寄付してもらうため全国行脚を始めた・・・
奈良時代の昔から今にいたるまで、いろんなドラマがあったんですね。
こんなスゴイものを実際この目で見ることができて、幸せですわ~
<追記>
平成の解体修理のドキュメント、ココにありました。
昭和・平成の大仏師たちのドラマ、感動です。
プロジェクトX 「南大門に王像大修理~運慶に挑んだ30人」
1/4だけのせましたが、4/4までありますので注意。
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「ムッチムチィ~~」ってなると、妙にリアルじゃん。
かえねーよ!